励み。

 

 

とある記事からの抜粋です。

 

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子どもたちのために。彼らの将来のために。

 

 教える、指導する、伝える、導く。

 

 そのために何が必要で、何を身につけなければならないのか。考えれば考えるほど、非常に難しく、知れば知るほど、奥が深い。だからこそ、その取り組みはスリリングで楽しいものだ。教え方を学ぶことは新しい発見の連続で、好奇心をとても刺激される。国によって考え方もやり方も違う。国外との比較だけではなく、国内でだって地域によって全く異なる。つまらないなんてことは何一つない。私は、指導者でいられることがすばらしいと思うのだ。

 

 前回のコラム(育成指導者がサッカーを教えられないようでは問題外。でも、サッカーしか教えられない指導者は失格!)で「指導者はなろうと思えば、誰にだってなれる」と書いた。偉ぶろうと思えば、いくらでも偉ぶれる。知ったかぶりだっていくらでもできる。でもね、誰でも、どんなきっかけであれ、どんな経緯であれ、一番はじめに「よし、指導者をやってみよう」という覚悟を自分なりに行ったはずだ。どんなレベルであれ、どんなカテゴリーであれ、「選手たちが成長できるように一生懸命やってみたい」という思いを抱いていたはずだ。そして、最初の練習前はすごく緊張して、その練習後は言葉に表すことができない充実感があったのではないだろうか。

 

「指導者ってすごいな。もっといい指導者になりたいな」。

 

 だから、その原点を思い出してほしい。私には、いつでも思い出せる原風景がある。いくつもある。振り返ることができる体験がある。語り合える仲間がいる。いつだって、いつまでも大事にしてほしい。そして、その思いを捻じ曲げないように気をつけてほしい。

 

 子どもたちのために。
 彼らの将来のために。

 

 そうした言葉をつづる指導者を、私はたくさん知っている。素敵な志だ。でも、その言葉を重荷にしたり、させたりしてはいけないのだ。その言葉で視野が狭くなったりしてないだろうか。考えが凝り固まったりしてないだろうか。どんなに立派な思想であっても、悲壮感があったら窮屈になってしまう。「これだけの思いでやっているんだから、お前らも全力でやれよ」。それは好意の押し売りだ。指導を学ぶとは、そういうことではない。

 

「指導者であることはそれだけで喜びだ」と、私は思っている。サッカーを通じて子どもたちと関われる、彼らの成長を間近で見られる。感謝でしかないではないか。だから指導現場に立てるということは、自分のためでもあるという思いを忘れてもいけないのだ。彼らの喜びが何よりという思いの底にあるのは、成長過程の真ん中で選手と一緒にすばらしい体験をすることができるからで、それは他の何かと比べ物にならないほどかけがえのない輝きがあるからだ。その心の声に嘘をついてはいけない。

 

 そういう視点で、まわりを見渡してみてほしい。きっと間違いなく、すばらしい指導者がたくさんいる。その人は、別に有名なJクラブや強豪町クラブでコーチをした経験がないかもしれない。ジュニアの大会でタイトルを取った経歴なんてないかもしれない。ジュニアユースで全国の舞台に立ったことがないかもしれない。就学前の子どもを相手に遊んでいるような人かもしれない。

 

 でも、その人のチームはまばゆい光を放っている。

 

 子どもたちが、保護者が、指導者が無理することなく成長していくクラブとして。「Jリーガーを輩出したクラブ」「全国大会に●年連続出場」というわかりやすい成功例にしか答えを見出せないクラブや指導者よりも、そうした目立つことはなくとも健やかな活動をしている指導者やクラブに対して正当な評価がされるようになってほしいと願っている。日本はサッカー文化が成熟してないなんて嘆くよりも、すでにすばらしい活動をしているクラブや指導者を大切にしていく方がよっぽどいい。私はそう思い続けている。

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この言葉を忘れることなく

励みにもして、またグラウンドで頑張ります!

 

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